大西歯科モノレールビルクリニック 院長 大西 祥文

穏やかで、どっしりと構え、聞き手を安心させる落ち着いたトーンの話し声。一方、治療の話題になると、熱を帯びて真剣なまなざしで語ってくださる姿。「歯だけを見ていたのでは、患者さんのことはなにもわからないんですよ」――。大西祥文院長とは、いったいどんな人物なのか? その治療方針、人生哲学、患者さんへの想い。くわしくお話をうかがいました。
聞き手:本間聖子(カスタマワイズ) 

歯科医を志したきっかけ浜松町に開業した理由大西歯科の治療方針

噛みあわせ治療の思い出入れ歯治療の思い出みなさんへのメッセージ

院長プロフィール


■歯科医を志したきっかけ

歯科医だったおじいちゃん――「なんておもしろい仕事をしているんだろう」

大西歯科モノレールビルクリニック 院長 大西 祥文

昔の歯医者は、鍛冶屋さんのようなものでした。
患者さんの歯に使う、詰め物やかぶせ物をつくるとき、まずは鉛の型を作り、そこに金属を流し込むという鋳造作業が必要だったのです。私は、歯医者だった祖父が大好きでした。子供の頃、医院の裏庭で、その鋳造作業をよく手伝ったものです。ワクワクする時間でした。子供心に、「おじいちゃんは、なんておもしろい仕事をしているんだろう」と思っていました。

私が育った岡山県井原市は、人口4万人ほどの小さな町です。小学生の頃、私はいつも医院の裏の河原で遊んでいて、患者さんが来ると、祖父を呼びに行く。治療がはじまるまでの待ち時間、患者さんとお茶を呑みながら世間話をしたり、診察室に入って治療の様子を間近で見学したり…。
今とは違って、時間の流れがゆったりとした、とてもいい時代でした。

18歳になった平成元年、私は歯科医を目指して上京し、日本歯科大学に進学しました。
とは言え、子供の頃から初志貫徹の決意で歯科医になった、というわけではありません。同じく歯科医であった父親への反発心から、一時は「歯医者になんか、なるもんか」と考え、デザイナーを目指した時期もありました。母親の説得で歯学部に進学しましたが、入ってみると、まわりは裕福な学生ばかり。アルバイトをしているのは自分ぐらいで、悔しさを感じたこともありました。

そんなある時、「自分は歯科医に向いている」と気がつく出来事がありました。大学で、歯型やかぶせ物を作る実習でのことです。指導に従って、歯型をとり、石膏をついで入れ歯やクラウン・詰め物などを作るのですが、クラスでは時間も成績もいつもトップクラスでした。勉強はダメでしたが、自分が思った以上に手先の器用な人間で、楽しく作業ができることを知りました。子供の頃、祖父の仕事を手伝った経験が、はじめて役に立った瞬間でした。

現在も、患者さんとのやりとりや、治療に集中している自分自身を思い返すと、やはり歯科医は自分の天職なのかもしれない、と感じることがあります。 又、母親が日本画家で、子供の頃から、いろんな美術館、展覧会につれて行ってもらったことが、後々の審美眼をもつことにつながっていると感じています。